最近感じる劣等感
モロッコの旅行が終わった
久々に一人になれて今はアブダビ空港でブログを書いている。
この10日間、最後のほうはなぜかわからないけど劣等感を抱くことが多かった。
寂しかったり、自分に自信がなくなったり。
なぜたろうと考えた時に、それは1人の時間が全くなかったからだなと思った。
このように自分を見つめる時間が全くと言っていいほど無かった。
この時間は自分にとって本当に落ち着く時間だ。
自分を取り戻せるイメージ。
逆に言えば、一人になって自分を見つめる時間を作らないと俺は自分を見失ってしまう。
この時間はやっぱりインドに行っても作ろう。
さて、今日も愛について書こうと思う。
最近の坂爪さんのブログを読んでいくつか心に残った文章がある。
「私は、自分が大好きなひとには『そのひとが幸せでいてくれたらそれでいい』と思っています」
愛情とは「自分を使って相手を幸せにすること」であるならば、執着とは「相手を使って自分を幸せにすること」だ。愛するひと同士は、常に一緒にいる必要はないのだと思う。愛情の9割は執着で、きっと、ほんとうの愛は『自分ひとりでも生きていけるようにすること(自分には力があるのだということを思い出すこと)』だと、私は、思う。
これは本当に大切なことだと思うのだけれど、自分が大好きなあのひとは、自分を幸せにすることはできない。自分が大嫌いなあのひとは、自分を不幸にすることはできない。「あなたなしでは生きていけない」というのは、愛情ではなく依存になる。好きなひとと一緒にいるときは幸せだけれど、離れているときは幸せではないというのは、多分、執着だ。自分を幸せにするのは自分だけで、自分ひとりでも幸せでいられる人間同士が、きっと、最高のパートナーシップを築くのだと思う。
大切なことは『自分に足りないもの』ではなく『自分にすでに備わっているもの(自分に出来ること)』だ。特別な何かを成し遂げようとはしなくても、特別な人間になろうとはしなくても、自分のこころが「いいな」と思う瞬間を積み重ねた先に、多分、特別な人生はある
人生の豊かさとは何だろうか。豊かさとは、多くのものを持っているということなのだろうか。貧しさとは「ものを持っていない」ということなのだろうか。もっと言えば、私は貧しい人間なのだろうか。それとも、豊かな人間なのだろうか。ひとつだけ言えることは、どれだけ多くのものを持っていたとしても「まだ足りない」と思っている限り、多分、それは貧しい人なのだと思う。
ふー、いい言葉が並んでいる。
まず愛とは相手の幸せを願うことである。
幸せを決めるのは本人だから相手を幸せに出来るかは分からないが、相手を喜ばす行動を取ることはできる。
執着はあまりしたくない。
執着よりも愛を大事にしたい。
そちらのほうが幸せだから。
このように自分と向き合う時間を絶対に作ろう。
これをやる度に俺は自分を取り戻せて、自分と対話できる。
自分が何を考えてるか再確認できる。
絶対にこの愛を投げ足すようなことはしない。
投げ出したくなったらなんども自分を見つめ合ってその度にまた何度でも愛そう。
愛とは献身的な働きである。