syouinsakamoto’s diary

世の中に対して自分が感じた事、変だと思った事をメモ程度に書いていきます。

幸せになる勇気

久々のブログだ。


今はアブダビでこのブログを書いている。

これからモロッコとインドに旅をしに行く。


モロッコは3人の仲間と、そしてインドは彼女と行く。

何があるか全く想像できないが、とてもワクワクしている。


さて、今ちょうど幸せになる勇気を読み終わった。

嫌われる勇気の続編であり、今回も学ぶことばかりだった。


その内容について書いていく。


・まずは「共感」について。

アドラー曰く、共感とは他人に寄り添う時の技術であり、態度である。


ではその共感のやり方について書く。


まずは「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。


共感とはあらゆる対人関係で求められる、尊敬の具体的な一歩なのである。


我々に必要なのは「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」である。


このように対人関係の第一歩は尊敬から始まるのである。


・人間は悲劇に酔うことを否定しなければならない。


面白い実験がある。

ある三角柱を用意する。

そしてそれぞれの面にある一面には「悪いあの人」もう一面には「かわいそうなわたし」と書く。


面白いことに人間が誰かに相談事をするとき、視覚化すると結局はこの二つしか語っていないことが非常に多いのだ。


しかし、どんなにその人が「悪いあの人」ついて同意を求め、「かわいそうな私」を訴えようと、本質的な解決にはならないのだ。


では最後の一面には何が書いてあるのか。

それは「これからどうするか」


我々が語り合うべきはまさにこの一点。

これを議論すればよいだけなのである。


・子供達が問題行動に走るのはなぜか。

これは子供だけではないが、人がいかなる目的を持って問題行動に出ているのか。

5つの段階に分けて考えていく。


問題行動の第一段階

「称賛の要求」

この要求を持っている人の目的はあくまでも「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば「共同体の中で特権的な地位を得ること」である。


彼らは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイルを身につけていく。


問題行動の第二段階

「注目換気」

これは上の「称賛の要求」、ほめられなかった場合に起こる。

そういうとき、人は「ほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考え出す。

それにより、特権的な地位を得たい、確固たる「居場所」がほしい。

そのように考える。


問題行動の第三段階

「権力争い」


誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することによって、自らの「力」を誇示しようとする、一言で言うなら「反抗」である。


問題行動の第四段階

「復習」


権力争いを挑んだのに歯が立たない、そのように戦いに敗れた人はいったん引き下がったあとに「復習」を画作する。


かけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復習をするのである。

愛の希求が叶わないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになる。


このような状態になるとひたすら「相手が嫌がること」を繰り返すのである。


問題行動の第5段階

「無能の証明」


上の4段階が全てうまくいかずに、人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分には何も解決できないと信じ込むようになる。


そしてこれ以上の絶望を経験しないためにあらゆる課題から逃げ回るようになる。


最初から「できるはずがない」と諦めた方が楽なのである。

そこで、彼らは自分がいかに無能であるかをありとあらゆる手を使って「証明」しようとする。


以上が問題の第5段階である。


・「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置く


・仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係は「信頼」の関係である。


・人間は1人では生きていけない。

弱いからこそ集団で分業していかなければ生きていけない。

そして他者と分業するためにはその人のことを信じなければならない。


利己心を追求したあとに他者貢献がある。


・相手が自分を信じようと信じまいと関係ない。自分は相手を信じる。信じ続ける。

手を繋ぎたいなら自分から手を差し出すしかない。


・「与えよ。さらば与えられん。」


・愛とは落ちるものではない。(偶然ではない。)

愛とは築きあげるものである。

落ちる愛とは本質的には物欲と同じである。


・我々は「私の幸せ」追求することによって、分業の関係を築き、「あなたの幸せ」を追求することによって交友の関係を築いていく。


では愛の関係とは何を追求した結果、成立するのだろうか。


それは利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「私たちの幸せ」を築き上げること。

それが愛なのである。


「わたし」や「あなた」よりも上位のものとして、「わたしたち」を掲げる。

人生の主語が変わるのである。


本当の愛を知った時、「わたし」だった人生の主語は「わたしたち」に変わる。


幸福なる生を手に入れるためには「わたし」は消えてなくなるべきなのである。


・愛とは「わたし」からの脱却である。

どうゆうことか説明する。


子供時代のわれわれは己の「弱さ」によって、大人たちを支配していた。

そして、多くの大人たちもまた、自分の弱さや不幸、傷そしてトラウマを武器にして、他者をコントロールしようと目論む。


つまり、全ての人間は過剰なほどの「自己中心性」から出発する。

しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なんだと了解しなければならない。


つまり、自立とは「自己中心性」からの脱却なのである。

我々は甘やかされた子供時代のライフスタイルから脱却しなければならないのである。


そして愛は「わたし」だった人生の主人公を、「わたしたち」に変えます。


我々は愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、本当の意味で世界を受け入れるのである。


たった二人から始まった「わたしたち」はやがて、共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくだろう。


・愛とは自立である。

大人になることである。

だからこそ愛は困難なのである。


・愛されることはコントロールできないが愛することは自分でコントロールすることができる。


ただひたすら目の前のパートナーと「いま」をダンスする。

今日という日の幸せを、今という瞬間だけを直視して、くるくると踊り続ける。

その長いダンスを踊りきった奇跡を人は奇跡と運命と呼ぶだろう。


・愛の関係に待ち受けるのは楽しいことばかりではない。苦難もあるだろう。

それでもなお、愛することができるか。

どんな困難に襲われようとこの人を愛し、ともに歩むのだという決意を持っているか。


・愛とは献身的な働きかけなのである。

花には毎日水をあげ、鉢の植え替えをし、日当たりのことを考え、毎日献身的な働きかけができるか。


愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人はわずかにしか愛することができない。


愛する勇気、すなわちそれは「幸せになる勇気」なのである。


我々は愛することによってのみ、自己中心性から解放される。

他者を愛することによってのみ、自立を成し得る。

そして、他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのである。


愛し、自立し、人生を選べ


・世界はシンプルであり、人生もまた同じである。

しかし、シンプルであり続けることは難しい。


・私たちは別れるために出会っている。

だとすれば、我々にできることはただ一つ。

全ての出会いと対人関係において「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾けるのみ。